第二回 くまっちゃん祭り 出店報告

晴天の連休中日
今年も行って参りました
くまっちゃん祭り。
第二回です。
今年も2階の教室で
本を並べさせてもらいました。
あいかわらず
木の教室
という場所以上に本たちが
なじむ場所があろうかという
この佇まい。
道具はリンゴの箱以外、
すべてここにあったものだった
というところが、また
ラクルであります。

この本を置いている台はたぶん
音楽室などで、黒板の前に置かれる
小さなステージっぽいものかな
それ風に作っても絶対にこうはならない
侘び寂び度合い。
美しいです。

またもや写真が撮れてないけれど
一日中校庭でくりひろげられていた
音楽の質の高さにもびっくり。
このロケーションであることが
また贅沢さを増します。
特に日が暮れてからのファイヤーダンス
と音楽のコラボは
見ていてトランス状態になりそうなほど
幻想的でした。
炎が出す音と打楽器のリズム
カリンバのメロディがあいまって
とうとう、炎の軌道の中に二匹の龍が見えてくる始末。
(笑われそうだけど、私には見えたんだもの)
その後夜更けまでの
即興ライブではラップも飛び出し(ラップは今様の都々逸とみた)
火をかこんでみんなで踊ったり。
ステージと観客の境界線があいまいな
この場所では
音楽との関わりとは
また違う次元にあるように思ったのでした。

その時代時代で、出し物というのは
自然に変化してくるけれど
底辺に流れているものは同じかもしれない。
村に、コミュニティに
仕事と同じぐらい必要な
芸能と芸術について。
そういえば
渡辺京二
『逝きし日の面影』

という本の中で、外国人の目からみた
江戸時代の日本では
遊び
というものが、仕事とおなじぐらい
大切にされていたようであり
そこには物質面以上に、
精神的なゆとりと豊かさがあったのかもしれないと思った。
仕事の中に楽しみを見いだすことや
仕事と芸能が混ざり合っている
ということが
近年では不謹慎、不真面目
とされることがままあると思う。
でも音楽は少なくとも体を動かす仕事には
とても必要なもんなんじゃないか
と斯様に思う訳で。
リズム、というものは
体の動きからうまれるよなぁ
とあたりまえのようなことを
あらためて思う。

宮沢賢治の『農民芸術概論網要』
には、


 曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
 そこには芸術も宗教もあった
 いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである

という記述がある
(出典:青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html


鶴見俊輔の『限界芸術論』

や、宮本常一の『村の若者たち』なんかにも(こちら在庫なし。。)
それに関する面白い記述があったような。
あそびをせんとやうまれけむ
またこの言葉など思い出した秋の一日でありました。