じぶんのしごとを作ること まほうのはじまりのこと その3

脱線続きの様相です。
収拾はつくのかという心配もありつつ。
本編3回目の今回は
自分のおはなしに立ち返るまでの
気付きの爆弾というか
目を覚ませと冷や水ぶちまけられるようなこととか
そういうモノについてのことです。

うずまき新聞6号を読んで下さった方は
説明不要かと思われますが
ミヒャエル・エンデの書いた
『魔法の学校』という短編に出てきた
魔法を使うための条件というもののひとつに
「自分のおはなしを生きること」
というのがありました。
自分のおはなしというのがどんなものなのか、
どんなおはなしの中でなら、本当の自分として生きられるのか
30歳を過ぎた頃、色々なことが立て続けに起こり
私はようやくそんなことを考えはじめました。
赤ん坊は両親を選んで産まれてくるのだ
という話を聞いたことがあります。
くりかえし産まれては死んで行く魂が
前世で解決できなかった課題を、
新たな人生において解決するために必要な環境を選び
その人生においてぶつかるであろう困難も障害も
わかった上で、その環境のその身体に宿る。
というひとつの仮説です。
私は特定の、名前のある宗教を信仰したことはありませんが
いろいろなものが循環しているこの世界で
人の意識というか、魂だけが循環しない
ということは、かえって不自然なことのように思っています。
そして不思議と言えば不思議なことに
私は子供の時から、「自分の死」を怖いと思ったことがありませんでした。
物理的な痛みや病を恐れても、死、それ自体については
(何の根拠も無いのですが)死んだってまたはじまるだけだ
と思っていたのです。
ただ、何のためにくりかえしているのか?
ということについて考えはじめたのは
やっぱり最近になってからのことなのです。

そのミッションというべき何かが
はじめから分かっていればいいと思うかもしれませんが、
課題は自分で思い出さなければ
ふりだしに戻ってしまうだけのような気がします。
ただ、そのヒントは苦しみだったり哀しみだったり
自分の心が大きくゆさぶられた時に見えて来るように思います。
だからつまりは苦難の時こそが
本質に気づくチャンスだと言えるのかもしれません。
かくいう私も
6年程前のどん底行き詰まり。
がなかったら
がなければ、今高知に居ることはなかったのかもしれません。
体においても、心においても、痛みというのは
何かを変えなさい!という
強力なメッセージに違いないと
そんなことを思うのです。

その4につづく。。