じぶんのしごとを作ること まほうのはじまりのこと その4

今から6年前、私は大阪の会社で働いていました。
歴史のある会社でしたが、私の所属していた部署は比較的新しく
常に前例のないことばかりやっていたので
企画担当というよりも、問題解決担当なんじゃないかというほど
しょっちゅうトラブルにつっこんでいました。
決まったことを型通りにやるのが嫌いな私の性分で
あえてけもの道を選んでいたような所もあるのかもしれません。
そしてそこでは日々の残業はあたりまえ、
さらに休みの日に会社に出たり
家に仕事を持ち帰ったりと
まさに仕事中毒のような状態でした。

その会社に入社する以前、
しばらく無職で就職活動をしていた時のことです。
面接の結果を待ちながらポストを覗くと、
その日、ポストに入っていたのはダイレクトメールばかりでした。
そのDMを見ながらふと、
 世の中が私に求めるのは、私自身ではなくて、私のなけなしの財布の中身だけなんだな。

そんなことを考えて、ぞっとしたことを覚えています。
どこにも所属しない、誰からの指示も受けない
ということは、まさに「自由」で、主体性さえあれば、
何だってできるという状況なのですが
その「自由」は
当時はただ空しくて心細いことでしかありませんでした。
仕事中毒のような状態にいたのは
だからつまりは
スケジュールを埋め尽くすことで
自分の存在理由を自問することから、
目をそらしたかったからなのかもしれません。

自分の居場所を作る
ということと
自分のしごとをつくる
ということは、実は同じようなことだとおもいます。
その場所に居てなんらかの活動をすることが、
周囲の人々や社会にとって都合のいいことで
その人がそこに居る事が
誰かの喜びや助けになっている
ということが実感できたなら
その時にはじめて
安心してその場所を占めることができるのではないかと
そんなことをおもいます。
ただし、そのために自分の本心を押さえ込んだり
無理をしていると、
負担ばかりを意識するようになって
機嫌の悪い人になってしまうでしょう。

それぞれの真心に無理やごまかしがない状態で
自分の役割を周りに認められて
自然にその場にいることができるということが
ほんとうに居心地がよいということだとおもいます。

宮沢賢治の詩「アメニモマケズ」に出てきた
「でくのぼうのような人」とは
まさにそんなふうにしてつくったその人の居場所に
心おだやかに佇むひとのイメージなのです。

そしてその場所のカタチというのは
100人いたら100人みんな違うのであって
既製服のようにお仕着せで収まるようなものではないような気がします。

だから毎日
行ったり戻ったり
出したり入れたり
蓑虫の蓑のように
自分だけにしか着られない服を
日々繕い続けていくように
居心地の良さを作り続けていきたいとおもうのです。