野暮なりの。

元来、
ぼんやりしておりますが
それでもときたま
あっ!そうか!
と何かに気がつく時があります。
すごく単純であたりまえで
そもすると
きれいごと
とか言われてしまいがちなことでも
上っ面でわかったつもりのことでも
本当の意味で「腑」に落ちてはいなかったりする。
「腑」っていわゆる内蔵のことですが、
目で見て脳で理解していることと
味わってオナカの中に納めることとは
全然ちがうって思うんですね。
それで、オナカに納めたという理解が
すなわち「腑に落ちた」っていうんではないでしょうかね。
そうやって腑に落ちたことっていうのは
誰かから教わることではなくて
自ら気がつく
という形でやってくるもののような気がする。
いえ
実際には教えていただいていても
多くの場合、あえてものごとの核心については触れず
内側からの気付きを誘発するような形で
さりげなく伝えられたことだったりもします。
よく、日本人は、はっきり意思表示をしない
というようなことが
ネガティブな特徴として言われることがありますが
これは果たして悪い事なのかどうか。
「ぶぶづけでもおあがり」

「はよ帰れや」
と言い換えるのがいいことなのかどうなのか。
正直、ここまでの慇懃無礼も面倒ですが
あんまりはっきり言いすぎると
無用の反感を買うのも事実。
そこで生じた捻れというのも実際なかなかやっかいです。
日本人はハグとかキスとか
身体的な挨拶をほぼしませんが
それをしなくてもごく少ない言葉数だけで
かなりの情報量をやりとりする能力が
ちょっと昔の日本人にはあったんではないかと
落語なんか聞きながらそんなことを思うのです。
相手の顔色や言葉の抑揚から
なんとなくこの雰囲気はどっちか。

感じ取れるセンスを持ち合わせていなかったならば
それが所謂
「野暮」ってことになるんでないかと
まだまだ野暮な自分なりに思うんでありますよ。
そんで、その感じ取るってことは
最近よく聞く「空気を読む」というのとはちょっと違うんだよね。
具体的に何がっていわれるとまた
ちょっと困るんだけどさ。