物の価値と仕事と

仕事はお金をもらう為にすることで
自分の満足とか、楽しみをそこから得ようとするのは
あきらめた方がよいと
私は就職してから、
あらゆる場面で
そういう意味の話を、色んな人から聞いた。
それは、その人の真意や悟りというよりも
諦めのような、嘆きのようなものだったかもしれない。
要求された仕事の中で
人として、道理が通らないことがあると思ったり
上からの理不尽な要求に固まったりしていると、
「お金をもらっているのだから、割り切りなさい。」
とか
「いちいち考えずに、要求されたことだけやればいいのだ。」
とか
そんな風によく周りから諭された。
だから、そういうことはよくあることで、
ごく普通の考え方になっているのだろう。
そして、その常識は多くの人々に、
ひとつひとつの物事を自分の頭で考えることを放棄させた。
そのレールが奈落に繋がっていると知りつつ、
火室に燃料を投じ続け、
乗客もろとも谷底に落ちる機関士のような
企業戦士とか呼ばれる人々を量産したのだと思う。
その姿はかつての特攻隊の若者たちにも似ている。
私たちはその犠牲から何かを学んだのだろうか?
結局、形を変えて、
見えない戦争が続いていたということなのかもしれない。

経済とかビジネスとか、費用対効果とか効率とか。
そういう言葉が
人々から
ほんとうの仕事
というものを奪ったのだと思う。
技術は進歩しているはずなのに
どうでもいい慮りとか
オマケ機能とか
すぐに飽きそうなデザインとか
そういうものが売り場に山積みになっている。
どんどん多機能になっていく家電製品は
何故か昔よりも簡単に壊れるようになった。
なんとなく腑に落ちないと思いながら
私は以前に聞いた話を思い出した。

昔、腕のいい鍛冶屋さんがいた。
ある人が彼を訪ねて行って
包丁を10本買うから安くしてくれと言ったらば
その鍛冶屋は喜ぶでもなく
一度に沢山作れるものではないので、10本もない。
今あるのは2本だが、
あんたが2本とも買うと他の人が買えなくなるし、
第一贅沢である。
どうしてもというのであれば、1本買うよりも値段は高くする。
というのである。
今、同じ物を一度に沢山買うと安くなる
というのが常識のようになっているけれど
ここで例えばこの鍛冶屋さんが、急いで10本の包丁を用意したとして
急いで用意した包丁が
以前に作っていた包丁と同じ品質を保てるのだろうか?
残念ながら、その可能性は低い。
そして、この鍛冶屋さんはそんなことをしなかったのである。
ビジネスの機会損失だ。
と、やりての営業マンならそう言うかもしれない。
だけど、よくよく考えれば、
この鍛冶屋さんのやり方の方が、
ごく誠実でまっとうなやりかただと私は思う。
ところが今、大部分の人は
高価な包丁を長く使い続けることよりも
安物の包丁を何本も買い換えることを選んでいる。
今のところ。
でも、高価だと思っている方のその包丁は
長く使っていくと、安物の包丁10本と対価か
それ以上に価値があって
そちらを選んだ方が、かえってよかったということがわかる。
でも、買うときには、そういうことには気がつきにくい。
そして、そういうカラクリは包丁だけではなくて
いろんな物について、世の中には氾濫している。
そうして人々は
物を大切にする心や
作り手への敬意をどんどん失っていった。
そして作り手は、
手間を惜しまずに少しでも良いものを作りたいという情熱や
使い手への想いやりを忘れていった。
なんてことだと思う。
みんなこんなことを望んでいたはずはない。
こんなのが豊かさであるはずはない。
騙してでも売れたらいい。
という売る側の思惑は
少しでも安く買いたいという
買う側の賤しさが呼び込んだものだ。
実際私たちは目先の小銭をひらうのに忙しい。
安い!
と驚くような物があったとして
その物本来の価値よりも安いと感じるならば
その理由をよくよく考えてみる必要がある。
時間を切り刻んで、
今の損得だけで物を選ぶと
それに見合った未来があらわれる。
日々の何気ない選択が、それを作っている。
私はかつて、安いと喜んで買っていた
88円の板チョコを買うのをやめた。
それはたぶん自分のためだと思う。