ホンヤとしてのタンレンとしての

ホンヤ稼業をやっていくにあたり
本を薦める
さらに、本を読むことを薦める
ということに
あらためて、ちょっと本気でやってみようか。
とか。
そんなことを考えている。

私は物心ついてから
というか、
文字というものが読めるようになってから
ずっと何かしら読んでいる。
ただ別に本という体をなしていなくても、
吊り広告でもツイートでもいいようだ。
読むものがないときは
全く買う予定もない、関心もない
車や不動産のチラシだって読んでしまうのだから
たぶん中毒の一種だと思う。
そして理屈っぽいコドモから
近頃はすっかり
理屈っぽいオバサンになってしまった。
ただし
学校の成績はたいして良くもなく
むしろ真ん中よりも少し後ろぐらいの微妙な域に
常に位置していたぐらいで。
パッとしない成績。という形容詞がぴったりだった。
本をたくさん読んだからといって
みんな頭が良くなる訳ではないということの証明だった。
残念なことに。
平均よりもたくさん読んでいることは
確かでも、私の場合、それがサラサラと
粘り気のない液体のように脳内を
通過している様なのだった。
こういうものこそ、脂肪のように蓄積していただくと
今頃は。。
と、思うけれどもそんなこといってもしかたがない。
重要な案件は忘れても
実益に繋がらないことに限ってよく覚えている。
メモリの使い道を間違えていると思うけど
そこを自分ではどうしようもないのだ。

ところで、
本を読めないという人がいる。
それならそれで別にかまわない。と、私は思う。
なぜなら、私は
一切のスポーツをしないし(できないし)
長らく時間とお金を費やした英語という言語については
ついにまったくほとんど喋れない。
ただその両者はおそらく、私には必要がないのだと思う。
スポーツはもっと運動神経のいい人がやってくれるし
英語は私が頑張って話さなくても、もっと達者な
誰かが話してくれるのだろう。
よろこんでその道を譲らせていただく。
その辺で、下手にうろついてるだけで
無駄なだけでなく迷惑である。
と、そのように理解することにしたのであった。

読書についても
それと似た様なことはあると思う。
読まなくてもいい人もいる。
宝島の地図だって
船長が読めなくても、読める人が
別にいればいいだけのはなしだ。
船長は他にやることがたくさんある。

えらく脱線。
それでも読むということは
それなりに悦楽であって
個人的には
酒はなくても平気でも
本がなくては大変困る。
だから本屋をやろうと思う一番の
理由は自分が依存する品物を
切らさず積み上げる為なのかもしれない。
仕入
という名目で本を買い放題だ
ということに
気がついてしまったからである。

つづく。。