たべてたべられる

今日は少しだけ畑で草刈りを。
ここ数週間
インドアワークが忙しく
まったくのほったらかし状態でしたので
ほんとにぼーぼーで
はっきりいって作物が見えません。
畑というよか草むら風で
やたらとバッタ、カメムシの類がおります。
んー
この畝何も植わっとらんのか?

思いきや
よくよく見ると
そこには空芯菜が。
危なく他の草といっしょくたに刈る所でした。
にんにくとナンプラーで油いためにするとウマイんだよね。
でも現状ひょろっひょろです。
慎重に周りのその他の草さんたちを刈り取ったので
今後に期待しますか。


ところで
今日の師匠との会話
たべるとたべられるについて
にんげんは
たべる
ばっかり。
たべられる
ことがないんだよねと。
それっておかしくないだろうか
という談義。


最後には

というもののエサとなるのではありますが
それとて実際には死体の水分が多すぎて、
燃料にさえなりゃしない。
結局の所、高騰する油でむりやり燃してる訳で
我々は今や死んだら何の役にもたちゃしない
それどころかエネルギーを浪費する
ごやっかいな存在なのだ。

それってかなり不本意なことだ

それでそこから星野道夫さんの話や
アマゾンの少数民族の話に波及

前にも書いたけど
私はせめて微生物のエサにぐらいはなりたいものだと
死んだ後は土葬できるもんならして欲しいと公言してきた。
頭に三角のヤツつけて正式な幽霊スタイルで
桶に入れて埋めていただければと。
後、その上には墓石ではなくて木を植えて欲しいのだ。

その他にたとえばチベットの鳥葬は見た目にグロいですが
分解方法としては早い上に
鳥と一体となって空を舞う
という
なかなかにロマンチックな方法だ
とかいうと
頭オカシイと思われる向きもありましょうが。
エネルギーの循環を考えると
埋めるよりもよりクリーンで、食べられる相手としては
うじ虫よりもありがたい感じがするってのは
一種えこひいきというものだろうか。
どうせなら熊とかに食べられたいけれども。

ついで「たべる」の方について
こいつらをいつか食べる。
と思いながらも
鶏に餌をあげたり、作物の草刈りをしたり
愛をもってそれらのお世話をしつつ
最終食べるってのは
ザンコクなようでいて
本当にそれらを私の一部にする
というのを実感するし
無駄にしまいという心理がはたらくので
実際には気持ちのいいやりかただと思う。

それだけじゃない
たべるってことは
というところで
さてさて。