こころの地下水

ミヒャエル・エンデといえば、
はてしない物語」や「モモ」が
映画化されて、世界中の人に読まれるようになった
ドイツの児童文学作家です。
彼の本だけではなく、子ども向けに書かれた本の中には
大人になって読み返してみると
おどろくほど、沢山の気付きを得られるものがあります。
本当のことや、伝える意味のあることは
むずかしい専門用語で書かれた本よりも
鮮やかにイメージが広がる詩や文学の中にあるような気がしています。
そういうものは子どもにもわかる。
むしろ子どもだから感じ取れることだってある
その本当のことの正体を説明なんかできなくても
そこにある「何か」に心惹かれる
という感性は、子どもの方が強いのかもしれません。
ロールプレイングゲームの中で
拾う不思議なアイテムみたいに
何の役に立つのかはよくわからないけど、
ひとまず懐にしまいこむ。
という感じで、記憶の片隅にストックされてる謎のアイテムは
思わぬ所で思わぬ役に立ったりします。
子どもの頃の読書というのは
そういう心の地下水のような記憶を
ぽたりぽたりと貯めているようなものかもしれません。

はてしない物語」の中で
おとぎの国のファンタージェンは
みんなの「信じる心」のようなもので
かろうじてその存在を保っています。
だから、みんなが妖精や魔法を信じなくなってしまった時
その存在自体が消えてしまうというのです。
”みんなが信じていることが現実になる”
というその設定は、はじめてこの本を読んだ子どもの時から
長い間私の心に引っかかっていました。
今、そのことについて思いをめぐらせれば、
世界は危険と恐怖に満ちていて
隣人は盗人である
というようなことを信じている人にとって
彼の世界は、現実にそうなってしまっているような気がするのです。
自分の世界は自分のイメージが形作っているとしたら
どうでしょう?
みんなが同じテレビ番組や雑誌を見て
「常識」がそこから生み出されるとしたら。
陰惨な事件や、政治家の嘘ばかりが目につくニュースを見続けると
世界はそういうものだというイメージができてしまう。
と、
そういう世界が具現化する。
バーネットの「秘密の花園」の中で
「うちの亭主はろくでなしの飲んだくれだ」
といった女の亭主が、彼女の言葉通りに荒れていった様子をして
動物とはなしができる男の子、ディコンは
「あのおかみさんは、間違った魔法を使ったんだ」といいました。
みんなそれと知らずに
その「間違った魔法」を
使っているような気がします。
魔法は諸刃の剣なんだと思います。
あたりまえすぎて、あまり深くその意味を考えることはありませんが、
人の悪口は言わない
ということは結局自分の為なのだろうな
と、
二つの物語をつなげて
そんなことを思うのです。
何年も何十年も前の雨が
長い時間地の底に隠れていて、忘れた頃に沸き上がるように
今更に、
そんなことを思うのです。