かみさまのてんびん

出したものしか受け取れない
でもって
出したものは帰って来る
万物のバランスは
常にプラスマイナスゼロ。
そんなことは
なんとなく色んな所で聞く話ですが
実感としてわかりにくいことかもしれません。
その理論で考えるならば
ちょっと前に流行った
勝ち組負け組
ということはありえない訳で。
一方的に奪えば
その略奪物というのは
空しく泡のように消えて行くか
大きなツケとなって後で自分も奪われるのか
そのどちらかのような気がします。
バブル景気の時の消費はまさに「消」費で
今になって何が残っているのか
考えてみればなるほど
当時すごく高価だったモノでも
今ではまったく価値がなくなってしまっていたり
持っていたお金も何に使ったのかさえも覚えていないようなありさまで。
これはお金やモノの話だけではなく
うれしいものや良いものの話だけでもなく
気持ちや言葉についても
悪意やごまかしだって
自分が出したものはかならず帰ってくるような気がします。
たとえば、自らの口から出た悪口や罵倒は
誰かからの悪口や罵倒を
値段ばかり安い物を求めると
値段ばかり安い労働を
それぞれ呼び寄せているように思います。
そういう因果の流れが
「業」とか「カルマ」とか呼ばれるものでしょうか。
反対にいえば
誰かから傷つけられた
と感じた時は
それと同等の傷を誰かに与えたことが帰って来ただけのことであり
うれしい
と感じた時は
かつてそれと同等のよろこびを誰かに与えたことがある
ということなのかもしれません。
そういう風に考えはじめると
どんなことがあっても
「ああこれもいつか自分の出したもの」
と思えるので
むやみにイライラすることが減りました。
外的要因で心が波立つのを防ぐ方法がもうひとつ
「常に正しいことしか起こらない」
と考えることです。
このことは以前にも少し書きましたが
不意に電車が遅れたら
あせったり無理に急ごうとせずに
「今日は遅れた方がいいということなのだ。」
と考える。
待っている連絡が来ない時には
「まだその時ではないのだ。」
または
「正解はそっちの方向じゃないんだ」
と考える。
現実に
うまくいってないのにゴリゴリ押したり
相手をせかしたりして
うまくいった試しはありません。

そしてそう考えるならば
原子力発電所の爆発でさえ
誰か悪者がいて
そいつらをやっつければいいという話ではなくなってきます。
そこから出た恐怖や違和感や苦しみというのは
それを感じる人、ひとりひとりの中から出たものかもしれません。
その証拠に
小さな子どもや赤ん坊は何も恐れていません。
私たち大人が目先の便利のために垂れ流して来た
欲とエゴが
考え無しで享受して来たいろんなもののツケが
今廻って来ただけの話だとしたら
せめてこの先新しい負債を
増やす事のないようにしなくてはいけないと思います。
それでもって
そんな出し入れのバランス感覚を持ってるということが
センスがいいっていうんじゃないだろうか。