だれかへの手紙

このブログって基本的には
特定の誰かに向けて書いてるわけじゃない。
誰が読むとも
読まぬともつかず。
ツブヤキ、というのは
いわゆる ひとりごと なんだけど
それよりは
何かを不特定多数の人に伝えたい
という意図があったりもするのだけれど
それってたとえば
出るか出ないかわからない種を
あまり期待もしないでバラまいている感じだろうか。
でも、その書き方ってどうなんだ?
と、ふと最近、そんなことが気になった。

そもそも言語というのは
他者に何かを伝えたい
という意思から産まれた能力というか
人間独特のものだろうと思う。
それなのに、これを他者への情報の伝達
という当初の目的からズレて
ひとりでつぶやいたり
内側でぐるぐると反芻しているような
自分がやってるのは
そんなことかもしれないなー
と、そんなことが気になった。

宮沢賢治が友人に宛てて書いた手紙をまとめた
『あたまの底のさびしい歌』
という本がある。
手紙みたいに
不特定多数の誰か
じゃなくて
誰かひとり
このひとひとりに伝わるように書かれた文章というのは
それが、自分に宛てられたものでなくても
なにか訴えるものがあるような気がしてくる。
特に、その内容が、専門的な何かではなくて
もっと普遍的な
個人的な感情に関することや
人生、生活など、誰にでもある問題を扱っている場合は
特にがんばって読もう
と思わなくても、すっと入ってくることがある。

沢山の人に伝えたい!
って街頭で演説するんじゃなくて
メールで一括送信とかじゃなくて
隣の誰かに、
身近な誰かに
その人にとりあえず全力で伝えるってことをやれば
その方がむしろちゃんと伝わっていくんじゃないかな
とか。そんなことを思った。
あたまの底のさびしい歌